最後の長老 (3)

このシステムを今の人類が認識しない限り、どうにも私たちはこのあり地獄からは抜け出せるすべがないのです。実は私はこのセッションで初めて憤りを表明してしまいました。それは最後の人類になっても生き抜くことを諦めなかった老人をエル・カンタスが「それはそれで評価している」と言ったときでした。

「あなたにこの老人を評価なんかしてほしくない」
「それはむしろ老人の在り様を穢すことになる」

そう申し上げました。(本当はもう少し口汚い言葉を使いました)。しかしそれは「力の原則」の前にはどこにも届かない狼の遠吠えにしか過ぎなかったのです。JUMUの中では私の憤りの表明を聞いている方たちもいるのですが、どうしようもないらしいのです。あの老人は絶望的な環境で、最後の最後まで諦めてはいなかったのですが、彼はそこに信仰を持ち込んでいました。

「神が何とかしてくれる」
「これまで神にすがれば何とかなってきた」
「今回も必ず神が救ってくれるはずだ」

その思いは結局自己の存在を「神」という自分とは別なものへ依存、委託してしまっています。そしてその祈りの行く着く先はエル・ランティ派閥かプレアデス派閥、あるいはその背後で牛耳っているエホバにたどり着いてしまうのです。

私たちは何も知らないまま自らの神聖な(と勝手に思ってるだけなのですが)祈りを、あちこちの勢力のエネルギーの肥やしに配分してしまっているのです。それは「知らないから」という言い訳は通用しないのです。「自己の存在」「アイデンティティ」そういうものを自分の外に委託、依存してしまうことは、その時点で自らの運命を他人に明け渡したということなのです。そのことに対して私はどこにでも誰にも文句をつけようがないのです。エル・ランティ派閥に力を与え続けているのは、地上で信仰をしている方たちなのです(それがどんな宗教であろうとです)。あるいはエホバにエネルギーを供給し続けているのは、自我自欲のままに他者を操り、搾取し、自分だけの快楽に身を任せる人たちでもあります。そういう方たちが多すぎるのです。無自覚のままエル・ランティを信じ、キリスト教に殉じ、それを「ちょっと違うのでは」とでもいう人がいると、猛然と抗議してくるという方たちが多すぎるということなのです。

それにしてもプレアデス派の人たちは、途中からエル・ランティ派に人類を横取りされて何にもクレームをつけないのでしょうか。確認してみますと、プレアデスの方たちの指導ポリシーは「その人が気がついた時点で応援する」というものでした。中々優等生的で、エル・ランティ派のような声がでかいテキヤ風なやり方とはちょっと違って上品なものでした。(ですから弱いともいえます)。ちなみにエホバはインテリやくざといったやり方をしています。

ここでも私は力の前に、数という力の壁の前で立ち止まってしまいました。

私たちのワークはこの後私たち二人という枠を越えて果たしてどこまで広がっていくのでしょうか。それともここまま収束してしまうのでしょうか。

この本を読み終えた皆様がその答えをお持ちだと思います。ありがとうございました。

最後の長老 (2) http://timepatroller.com/spirit/post-774