知る者は云わず、云う者は知らず・・( 2 )

宗教をやっている人の中には、えてして、神秘的なことばかりに興味をもっていて、霊魂をみたり、神霊の世界や幽界の様相をみたりすることだけに想いひかれ、一般の人々との交際ができなくなってしまう人がいますが、これはこの世に生まれた人としては困りものなのです。神秘にひかれ、神霊界の在り方に興味をむけたりすることは、宗教の道に入った人としては当然なことではありますが、それはあくまで、この肉体界に基盤をもってなさねばならないとことで、この肉体界から足を浮かして、宙ぶらりんの状態で、ああ、神様の姿を拝した、光明世界を観た、神の声を聞いたなどと、そうした神霊現象ばかりにとらわれていたのでは、この肉体世界の生活が崩れてしまい、折角神霊界に開かれた道が、かえってその人の仇になってしまいます。老子が常に無為にして為せ、といっているのはここのことなのです。どんなに神様を求めていても、それが何等かの興味であったら、それはもう純粋に神を求める態度ではなくなるのです。神を求める想いは純粋でなければなりません。自己の本心(仏性)開発の為にこそ神を求めるのです。無為にして為せという老子の言葉の通りに生きていれば、自ずと自己の本心が開発され、やがては玄同の境地になり得るのです。

しかし、そこまではなかなかなり得ないのですから、神を求むるあまり、神の姿を観る興味や光明世界を観ようとする興味も時には、得難い経験を積むことにもなり得るので、致し方ないものとして、そうした体験をした後には、今度はそういう観るという興味を超えて、神のみ心を行為として現す、という生き方に入ってゆかねばなりません。興味にばかりとらわれて、興味の後ばかりを追いかけ廻していたならば、それは宗教心と全く異なる方向に自ら運んでいってしまいます。誰でも深い境地に入りきるまでには、種々様々な神霊現象や幽界現象を味あわされます。だが、そこで、その現象に想いがとらわれてしまうか、そうした想念を超えて、自らを神のみ心の顕現者として、この世の生活を生かしてゆくかによって、両者の存在価値はまるで異なったものになってしまうのです。老子はそうした真理を実によく知っていますので、神霊現象のようなことは殆ど説かずに、一直線に神のみ心の深い奥底に人々を導き入れようとしているのであります。善いことにも悪いことにも、すべての事柄にとらわれさせないように、とらわれの元である想念波動を、どこかへ消し去ってしまおうとして、無為にして為せ、というのであります。神といえば、神にとらわれる、仏といえば仏にとらわれる、そこで、想念行為と直結している道という言葉で、人間の生き方を説いているのです。道といえば、神に姿を求めるようなとらわれ方はしないからなのです。すべてのとらわれから解放された時、人間ははじめて自由自在の身になり得るわけです。その一番やさしい方法、消えてゆく姿という言葉をつかって、神の道に導き入れているのが、私の説いているところなのです。