次元と認識

次元と認識―いのちの本質をたずねて (1979年)

作者: 小菅 正三 出版社/メーカー 発売日: 1979/09 メディア: -

六 次元への導入

見る者の立場による対象の変化

われわれがお互いに語り合う場合、日常経験することがらについては、一応何の不自由もなくその思うところを伝えることができるが、具体的に示すことのできない心的現象となると、自分のみるところを他人に伝えるのに甚だしく困難を感じる。これは前にも一寸触れたように、人はそれぞれ別の世界に住み、別々の考え方をしているから、同じ言葉であっても受け取りようが異なり、こちらの思う通りの内容を相手に理解させることが困難だからである。たとえば同じ「河」という言葉でも、その内容は決して同じとは限らない。

一般に河というと、概念的には、山間の泉から流れ出て、渓谷から平野に、そして末は大海に流れ入る水の流れを思い浮かべるであろうが、ほかにも次のようなさまざまな見方がある。

第一は河に住む魚の立場でみた河で、それはただ流れ来り流れ去るだけの水の世界で、ときたま眼前に餌やゴミが現れてくるそのようなものとしか受け取れないであろう。

第二は海岸に腰を下ろして河面を眺めている人の立場で、彼は河の水は無限のあなたから流れ来り、無限のあなたへ流れ去るものと考え、時たまその水面を流れ去りゆく小舟の姿を感慨深く見送るであろう。

第三は上流から舟に乗って流れを漕ぎ下る舟頭の立場で、自分は動かず、ただ両岸の景色が目まぐるしく来り去りゆくのを見守ることであろう。

第四は高い山の頂や、宇宙ロケットから見た場合で、この場合、河は流れず、上流も下流も同時に一望のもとに指呼することができ、全体としての姿があるばかりである。

第五は今までは地上の河だけを河と思っていたが、こんどは天を流れる見えない河のあることに気付いた場合で、河は海に流れ入ってすべてが終わったのではなく、海の水は蒸発して雲となり雨となり、再び山に降って、また新しい河の誕生が始まる。つまり河には見えない河をも含んでいることを知る。

第六は今まで見てきた河の姿も歴史的に見れば刻々とその姿を変じ、一刻として同じ姿を止めず、きのうの淵は今日の瀬となり、桑田変じて大海となり、河の姿は絶えず成・住・壊・空の変転を繰り返して、これが河だと固定した姿はないことを知る。

そこで、一口に河とは何ぞやという質問に対しては、以上のように洋々な答えがあり、相手がどの立場で質問しているのかによって、説明の仕様も理解の内容も異なってくる。それに、われわれの取り扱おうとする対象は、主として客観性のない世界のものだから、それを形ある自然界を見慣れた頭で議論するとなると、いわば暗闇のなかにある対象について話し合うようなもので、自分で触れたこともない人々には、何のことやらさぱり見当がつかないわけである。それにまた、議論している当人自身が、この暗闇のどこに居るのやら判断がついていない場合が多く、そのような人々が銘々自分勝手な立場で、ここにあるあそこにあるのと論じ合うのであるから、水掛論に終始せざるを得ない。

このような場合、碁盤の目のように、あるいは地図の経緯緯度線のように、それぞれの位置を確かめ得る手段があるならば、話は大分簡単になる。そこでその目的のために、ここに「次元」という考え方を導入しようと思う。

次元的考察における観察者の立場の重要性

われわれの目指すような心的現象の理解に、数学的な「次元」の考え方を導入する試みは、すでに数多くの著作に採り入れられてはいるが、しかしそれらのほとんどが、数学的抽象の段階を出でず、感覚の根本である心や、さらに高い世界の解明に役立たしめようと試みたものは稀であり、ただ多くの場合、三次元を超える四次元の世界をもって、単に時空を超越した神秘的現象の行なわれる世界というに止まり、何故にそのような現象が可能なのかという点までには触れていない。

われわれがこれから取り扱おうとする対象は、まさにこの神秘不可思議の領域に属し、未だにその実相の科学的解明は不可能とされているものである。元来不思議とは対象そのものの持つ本質からくるものではなく、われわれの認識、すなわち心との結び付きのあり方にその神秘の鍵が隠されているものであるから、その解明には、常に観察者(見る者)の立場を無視しては考えられない。観察者の立場が何故に問題の見方に関係があるかは、前に河の概念のあり方について説明した通り、見ている「私」-「我」の立場ということが重要な意味を持っており、そこには立場(次元)と認識との関係の追及が重要な問題となってくる。それは、従来の次元論では取り上げられなかったものだけに、その理解には、相当煩雑な説明を必要とし、読者を困惑させることと思うが、この方法を除外しては、ただ困難な修行を通しての直観によるほかなく、しかもそれは誰にでも可能な方法ではない。

次元の基礎概念と「我」の導入

次元という言葉の基礎概念は、われわれの見ているこの世界、すなわち前後(縦)、左右(横)、上下(高さ)の三方向の拡がりをもつこの空間を、三次元の世界と呼ぶところから始まる。次元は幾何学的には、空間の拡がりを示す形式として、互いに直交する幾つかの元(要素)、すなわち座標によって限定される世界を、その元の数に応じて何次元の空間と呼ぶ。

従って、縦・横二つの元によって限定される空間は二次元であり、幾何学的には面と呼ばれ、元がただ一つの場合は線と呼ばれる。ところで、逆に三次元を超えて、四次元の世界も考えることができる。しかしそれは他の場合と違って、空間とはいわず、時間の次元と考えられている。そしてそれを超える更に高い次元も、数学的には考えることは可能である。しかし、それが現実にわれわれとはいかなる関係にあるかは簡単には説明できない。いうまでもなく、三次元の世界は、われわれの生活空間であり、四次元の世界も、その中で時間として経験しているのであるから、その現実世界との係わりは、比較的容易に理解できるように思われる。だが、実は、そこに大きな落とし穴がある・・・・というのは、本来抽象的である数学的次元の考え方を、われわれの目的とする心的現象の理解に関係付けようとする場合には、これまでもたびたび述べたように、われわれの取り扱う対象が、主観(直観)の世界のものであり、客観のそれとは全く別のあり方のものであるから、当然次元と認識との関連性についての充分な検討が必要だからである。その意味において、ここに次元とは「我」の立場ということであり、認識とは世界(対象)の受け取り方ということである。世界は後述するように、認識を離れては存在せず、従って見る者(「我」-観察者)の存在と、その立場を無視しては考えられない。もちろん最近の物理学においても、観察者の立場は問題とされてはいるが、それはあくまでもその立場における客観で主観ではない。

そのような意味で、われわれの研究をすすめるために、常識的の次元観を以上の点に沿って改めて考えなおしてみる必要がある。

そこで最初に次元の論理的意味について考えてみよう。

(一)次元は互いに垂直的関係にある世界である。

次元はもともと互いに直交する座標によって限定される世界であり、高い次元は低い次元に比して、その直交の繰り返しの数が多いことを示している。直交の繰り返しとは第一図(a)に示した様に、線分Bは線分Aに対し直角(垂直)であり、線分Cは線分A及びBのそれぞれに対して直角であるということ、すなわちA・B・Cは互いに直交の関係にあるということが重要な点である。

ここで注意すべきは、高い次元は低い次元の何れの次元に対しても垂直的関係にあるという条件である。たとえば第一図(b)のようにBはAに垂直でも、CはAに垂直ではないからAとB(もしくはBとC)は次元的関係にあるが、CとAとは次元的関係にはない。この場合CとAとは同一次元でただ階層が違うにすぎない。従って第一図(c)のように、Aに対して平行な関係にあるB及びCも同じである。このような、平行であって、ただ階層だけが違う場合は、単に「次」または「次限」として、次元とは区別すべきである。つまり前者は同じ世界の中での階層の相違であり、後者は異なった全く別の世界なのである。

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