ムルタムの罪と罰

前世を巡る旅

なぜ彼女はそのような虐待を子供の頃から受けなければならなかったのでしょうか。またその呪縛からの解放はあるのでしょうか。まずはその因を探るため関係のある直前の生を調べました。

時は戦国時代で場所は九州の薩摩藩です。藩の中の小さな領地を任されている領主がいました。発端はそこから始まっています。
戦国時代だけではないのですが、人間の価値は支配者層を除けばほぼ物の価値と同じか、それ以下は当たり前で、今でこそ「人権」「女性の権利」などと謳われていますが、長い人類の営みにおいてその歴史に残らない人間の成した所業はほぼ忘れられてしまっています。しかしそれは人間だけが忘れていることであり、宇宙の因果率は愕然としてカルマというシステムで稼働しているのです。

この薩摩藩の家臣である地方の領主が人集めをしています。人集めといいますと聞こえはいいですが、実際にやっていることといえばほぼ誘拐で、当時の言葉ですと「人さらい」でした。
あの宮崎から長崎にかけて(九州の西海岸)は小さな島々が多く、その島々から子供をさらってきています。

しかし先ほどいいましたように如何に人の歴史は無法地帯とはいえ薩摩藩の正式な家臣が子供をターゲットに人さらいなどということをするのでしょうか。
当時は当たり前の慣習として、戦国時代の各領主の戦略の一つで「人質」というのがありました。お互い協定や契約を守るためそれなりに大事な人を人質にするということが一種の慣習だったのです。

さらって来た子供を育てて一定の教育を施し、それを養子に出し、その養子がまた別の家に出されてという一種のマネーロンダリングではないのですが、そういうふうにやって行くと、もう訳が分からなくなってしまい、それなりの教育と見目があれば人質はもちろん、お妾さんなどや祭祀に使用する人身御供などの多様な用途の人身売買システムに組み込まれてしまっていました。

そうした人質要員をストックしておくことがメインでした。基本的にこれは薩摩領主の命令でやっていました。

さらわれてきたのは三つか四つの小さな子供がほとんどですが、この時は手あたり次第いちどきに根こそぎやっています。その子供たちが大きくなると先ほど書きましたように人質に使用したり、政略結婚に使ったりしていますが、その場合はもちろんさらってきた子供にキチンと教育を施して、見た目や立ち居振る舞いは一人前の武士の子女に育てています。