桃太郎

吉備津神社の祭神は吉備津彦命で,仁徳天皇の代に創建されたと言われています。本殿と拝殿は室町時代に再建され,比翼入母屋造りの優美な建築様式が「吉備津造り」とも言われ,国宝に指定されています。

昔,吉備(きび)という国のこと,瀬戸内海を見下ろす現在の岡山県総社市の鬼ノ城(きのじょう)に砦(とりで)を築き,温羅(うら)という恐ろしい鬼が住んでいました。温羅はもと百済(ペクチェ:くだら)の王子だったともいわれています。

鬼ノ城のある鬼城山とそれに続く岩屋には巨岩がたくさんあり,今にも鬼が現れそうな景観を見せています。

桃太郎とは

百済から渡来してきた温羅(ウラ)一族が、当時の最新技術により、優れた鉄器を作り出している事を聞いた大和朝廷は危機感を募らせた。何故ならば、中国地方には、あの製鉄(たたら)の出雲が近かったからである。一応、出雲は大和朝廷に対して恭順の態度はとってはいるものの、その力は強大であった。そして出雲勢力を牽制するためと、中国地方に豊富にあった良質な砂鉄資源の確保のため大和朝廷は、中国地方の制圧に乗り出した。

それが、第十代天皇 崇神天皇が派遣した四道将軍である。

「四道将軍」
西道に派遣 吉備津彦 北陸に派遣 大彦命 東海に派遣 建沼河別命 丹波に派遣 丹波道主命

桃太郎は、この西道(中国地方)に派遣された吉備津彦を大将として、吉備津彦が中国地方制圧の為に力を借りたとされる地上戦を得意とした軍事部族、犬飼部(いぬかいべ)を犬とし、芸能の神アメノウズメの子孫とされ暗殺を得意とする部隊、猿部氏(さるべ氏)を猿、弓矢をもって鳥を捕ることを職能とした土地なしの部民の鳥取部(とりりべ)を鳥としたのである。

ちなみに、この地上戦を得意とした部族(犬飼部)から後に排出されたのが、5.15事件で知られる第29代総理大臣犬養毅である。

吉備津彦命は、犬飼部の犬飼建命、猿部氏の楽々森彦命(ささもり)、鳥取部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)率いる軍隊を連れて温羅一族の居城(鬼ノ城)の討伐に向かうわけだが、戦えども戦えども苦戦を強いられる。そこで、芸能の神アメノウズメの子孫とされる猿部氏が私にお任せ下さいと言って温羅の大将のところに出向く、元々猿部氏と親交があった温羅は油断している、そこを欺いて猿部氏は温羅の大将を討ち取るのである。

これが、裏切りの語源。【温羅(ウラ)切り】

そして、この時、温羅討伐の仕事の報奨として与えた土地が=吉備団子のことである。

この山の中央付近に吉備津神社があります。
ここから温羅(うら)のいる鬼ノ城に矢を射まくります。

さて、ここまでが、表で語られてきた桃太郎の話である。ここからが、本当の真実である。

疑問となるのは「猿」である。『猿飼部』の楽楽森彦と紹介されている文献があるようだが、そもそも『猿飼部』なるものの存在は疑問視されている。そこで浮かび上がってきたのが、讃岐の武殻王である。その武殻王の伝説についてみていく。

女木島 高松港から北沖約4km,フェリーで15分ほど,瀬戸内海にある。島の大部分が山で,人が住んでいる集落は東西にある港周辺で、夏は海水浴客でたいへんにぎわいます。また,この島は「鬼ヶ島」ともよばれています。

讃岐坂出に武殻王(タケカイコオウ)伝説

讃岐の桃太郎
実は香川県の民話では桃太郎は第7代孝霊天皇の第八皇子雅武彦命が桃太郎のモデルといわれています。(『童話「桃太郎」の発祥地は讃岐の鬼無」 橋本仙太郎著』参照)そのお話によりますと、女木島(高松市)にいた海賊に讃岐を襲われた倭迹迹日百襲媛命が対岸の吉備の国に進攻していた弟の吉備津彦命兄弟に助けを求めたことが、桃太郎伝説となったと伝わっています。またお供にいた犬、猿、雉も存在しお伴をした犬は、泳ぎ上手で航海術にたけた備前牛窓、犬島の住人。猿は、綾歌郡陶の住人、猿王館、つまり前述した讃留霊王(さるれお)のことです。また雉は、佐料の雉が谷の住人で弓の名人だそうです。こうして力を合わせて鬼を退治し、凱歌をあげたのが勝賀山だといわれています。しかし、鬼は追撃に出て、桃太郎さんを鬼無のあたりまで追っかけてきた。これも力を合わせて撃退し、鬼を葬ったのが「鬼塚」だといわれています。こうして桃太郎さんは、鬼無権現として、現在の桃太郎神社に祀られてあるそうです。猿、犬、雉も仲よく石の下に鎮まっています。

二人の稚武彦

吉備津彦命と稚武彦命は孝霊天皇(紀元前342年- 紀元前215年3月27日)の皇子で、讃留霊王こと武卵王(または武殻王)は日本武尊(倭建命)(72年頃–113年頃)の皇子(息子)稚武彦命

そう猿(サル)とは、讃岐を治めた讃留霊王(さるれお)こと武殻王=日本武尊の息子、稚武彦のことだったのである。

ここで「ん?変だぞ?」と思ったあなた。そう、変なのである。

吉備津彦命の弟、稚武彦命(紀元前342年- 紀元前215年3月27日)日本武尊の息子の中の一人稚武彦王年代は(72年頃–113年頃)年の年代として、吉備津彦の温羅退治が先で武殻王(讃留霊王)伝説の方が後なのだ。

後の世に登場する讃留霊王に、稚武彦命が援軍を頼むことなど出来ない。と、思うだろう。
ところが!である。私は、武殻王(讃留霊王)伝説の主人公こそ稚武彦命であると考える。
武殻王伝説を読み返していただきたい。武殻王は日本武尊の息子である。
日本武尊は古代歴史上のスーパースターで、九州の熊襲建・出雲の出雲建を倒し、相模の国では草薙剣(天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて荒ぶる敵を焼き尽くす。他にも全国各地で日本武尊の活躍のエピソードがあるのだが、歴史学者の間では、「日本武尊は各地の英雄話を集めた架空の人物だろう」と言われている。

しかし、吉備津彦の弟の「稚武彦」と日本武尊(倭建命)の息子の「稚武彦」。これはどういう事だろう。

私はこう思う。武殻王(讃留霊王)伝説は、日本武尊の息子「稚武彦」が讃岐を平定し、吉備の国(岡山)に向かうための道中にあった高松の女木島(鬼ヶ島)のウラという海賊を倒したのであると。(悪魚退治)(香川・桃太郎伝説にも繋がる)

後の世の人が、武殻王(讃留霊王)伝説を過去にあった四道将軍の西道(中国地方)征伐になぞらえて創った、桃太郎(武殻王・讃留霊王)が鬼(温羅一族)を倒すという話しが桃太郎の御伽噺だったのである。※鬼=外国人(百済から渡来した温羅一族)

そう、これが、桃太郎の真実である!

そして吉備津彦は吉備の国を治め、海賊退治に功績があった武殻王(倭建命の息子)は讃岐国を治めた(讃留霊王伝説)

こう考えると「岡山・桃太郎伝説」「香川・桃太郎伝説」「武殻王(讃留霊王)伝説」の謎がすべて解けるのである。

桃太郎の主人公は、武殻王(讃留霊王)である。

※古来より中国地方には良質の砂鉄が採取されていた。スサノオが出雲で退治したヤマタノオロチから出てきた「草薙の剣」は、天皇家の三種の神器のひとつであり、南北朝時代には、名刀「備前長船」を作り出している。

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