肥田式強健術

はじめに
肥田春充(1833~1956)の生涯と、強健術の発展は切り離すことができない。強健術だけを取り出していかに詳細な検討を施しても、その本質を見出すことは困難であろう。
強健術は長い年月をかけて変化発展してきたものであり、肥田式の代表的概念「正中心」も最初から存在したわけではない。また、春充の成長と密接にリンクしながら、発展してきた強健術は、その完成形をいかに丹念に分析しても何故そのような形になったのか、その構造を知ろうとしてもそれは徒労に終わるに違いない。
この小論では、肥田春充の半生を縦軸に、いままで単なる肥田式の効能書き程度にしか認識されていなかった「八大要件」を横軸として、春充がいわゆる「正中心」に落節するまで、つまり「正中心」の概念が確立するまでの強健術の基本的構造を解明しようとするものである。
・幼少期と強健への志
肥田春充は、明治16(1883)年12月25日、山梨県の寒村西桂村(現在の山梨県西桂町小沼、富士急行線 三つ峠駅付近)に生を受ける。父はこの村で名医、慈医として名高かった川合立玄(はるつね)、母は地元出身のつねという女性である。この時、父立玄40歳、母つね34歳の高齢出産であり、春充にはすでに異母兄の豊次を始め三人の兄、二人の姉があった。
春充の回顧によれば、この子沢山の一家はことごとく病弱であったという。事実、春充も誕生してから五年後、数え年6歳の夏に重症の麻疹にかかり死線をさまよう。春充はこの時を含め計2回医師より死を宣告され、辛くも生き延びている。このような病弱でやせ細った身体であったため、友人からは「茅棒」との侮辱的なあだ名で呼ばれ、外で遊び回ることも少なく家に閉じこもりがちであったという。
そのような鬱々とした日々を送っていた春充が数え年7歳の前後1年、母及び兄姉弟4人が相次いで死ぬという悲劇が訪れる。これをきっかけに、春充に生涯大きな影響を与えつづけた兄川合信水は、深く思うところがあり洗礼を受け基督教に入信する。春充も翌明治24(1891)年に受洗し基督教徒となっている。
春充は、地元の小沼小学校に入学するも病弱のため休み勝ちであり、中学へは進学を断念せざるを得ないこととなる。自宅療養を続ける春充はますます病弱となり、精神的にも鬱病に近いものになって、父親の薬棚よりモルヒネを持ち出し自殺を試みたこともあった。
このような苦悩を経て、春充は数え年18歳の時に心身を改造する一大決心をすることになるのだが、後年春充が語るところによればそのきっかけはいくつかある。
一つは虚弱な体と精神では、行き着く先は惨めな生涯しかないという煩悶と恐怖が、強健に駆り立てたというものである。
また、当時好んで読んだ講談本の豪傑に焼けるようにあこがれ、自身も世のため、人のために鉄腕を振るい奮闘したいとの熱い思いが強健を志させたとも言う。
殊に、同様に病弱でありながら黙々と家業を遂行していく父と兄の後姿は、春充に弱者に甘んじ、現実から逃避することを無言のうちに戒めていた。
また、父が村内の者に貧乏ゆえののしられ、じっと堪えている姿を見、それが強健を志す一つの動機になったとも後に春充が語るところである。
さらに、夕暮れに自室で鬱々としていると、隣室より父が仏壇に向かい先祖に、春充の病気平癒及び長寿を祈願する声が漏れ伝わり、その親心に感動し発奮したという逸話もある。
また、今後社会人となり、老父と病身の兄とを支えるために自身に掛かってくる社会的、経済的責任を、今の病弱な体では背負いきれないとの現実的な自覚が強健を志す動機の一つになったとも、その処女作「実験 簡易強健術」に春充は記している。
・5つの方針
こうして春充は、18歳の春に強健を志し具体的な行動を始める。無論春充はそれまでなにもせずに手をこまねいていた訳ではなく、様々な健康法、養生法を試みた形跡がある。
それらの経験からただ闇雲に運動を始めても当初の目的が達成されるどころか、かえって身体を壊してしまうことに気付いていた春充は、父の書棚から当時の解剖学の権威書である、ハイツマンの「解剖学」とランドアの「生理学」を借り出し、およそ一年の歳月をかけこの2冊を精読する。この二冊の本を読破することにより春充は、人体が新陳代謝により変化することを知り大いに発奮すると同時に、人体の構造の精妙さ自然の造化に感嘆せざるをえなかった。
このことに関し春充は「驚嘆すべき天地の妙機、神の御業の偉大な一端を窺い、ここに私は、宗教と科学と、相反馳すべきにあらずことを感じた。」と述べている。この弱冠二十歳にも満たない頃の感想は、後の春充の宗教観、科学観に大きな影響を与え続け、晩年の思想の萌芽となっている。
こうして人体の構造を理解した春充は、次のような5つの強健術の方針を立てる。
○ 運動は飽くまでも、自己の嗜好に適したものでなくてはならない。厭々ながら義務的にやる様なものであっては到底その効果を挙げることは出来ない。
○ 強健になるべき目的である以上、運動はどこまでも、積極的のものでなくたはならない。
○ 運動が、技術の末に堕してはならない。運動は、運動それ自身で、効果を収めうるものでなくてはならない。
○ 運動に金銭を要してはならない。運動に機械を要してはならない。健康は身体それ自身を以って、購うべきものである。
○ 最後に、最も、最も―、大切なことは、運動に多大の時間を要してはならないということだ。時間を多く要することは、徒に疲労を招くのみならず、最も恐るべきことは、どうしたって、永続慣行を妨げると、云うことである。
これらの方針は過去に行った運動法、養生法の失敗から経験的に導かれたものであり、強健術の成り立ちを考える上で無視できないものである。
第一の「運動が嗜好に適したものでなければならない」という条項は、小中学校の体育の時間が、無味乾燥な苦役であった経験より生まれたものである。
次の「運動の積極性」をうたった条項は、当時流行していた冷水摩擦や、腹式呼吸による養生法が、ある程度は身体の健康を保つ効果を認めながらも、筋肉個々の発達には貢献しないと言う点で消極的であると考えたものである。またその頃の衛生思想が、不潔や細菌の恐怖心を徒に煽りその本来の効果を発揮できないことも消極的であると捉えていた。
そして「運動が技術の末に堕してはならない」とは、鉄棒等の機械体操の経験より、その技術が熟練すると却って、力を要せず技術に堕してしまいがちであり、身体の発達にあまり貢献しなくなることを戒めているものである。
「運動に金銭を要してはならない」この項目は、現代と同様に当時も様々な健康器具が巷に溢れており、人々がそれに右往左往していたことを踏まえている。さらに、春充は、天が生物を生じ、生物がその生を完うするのに、金銭を必要としなければ健康を維持できないとしたならば、これは天理に反したことであると考えた。この考え方は治病にも敷衍され、後に天真療法の重要な考え方の一つとなる。
「運動に多大な時間を要してはならない」この目的完成のために春充の強健術は、変化発展していったと言っても過言ではあるまい。春充はこれを運動を永続させる最も重要な実際的問題と捉え、初期の頃は練習時間を10分程度に設定していたが、いわゆる正中心に落節した後にはその時間を僅か40秒に短縮することに成功している。そして、その次に来るものは無為自然、行住坐臥すべて中心に活き、生活そのままの姿に帰着することと信じ、実際に晩年においてその境地に達している。

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